サンチャゴ要塞(Fort Santiago

サンチャゴ要塞(Fort Santiago)
この要塞は様々な歴史的出来事があった場所で、フィリピンを知る上で最も重要ではないか?と思います。
フィリピンに到着した最初のスペイン人はマゼラン(1521年)だと言われています。その後スペインはポルトガルとの間で1529年4月22日にサラゴサ条約(Treaty of Saragosa)を結んだが、この中にフィリピンをスペインの領土とする内容があった。しかし実際スペインの統治は1565年セブ島に植民地の基地、支配を開始できたのは多くのイスラム教原住民と戦い、1571年マニラに、このサンチャゴ要塞が建てられた後だされている。当時は竹・木・土などで作られたモノであった為、1574年 - 1575年にわたってスペイン・中国戦争があり、中国の海賊によって破壊された。

再建は1589年強固にするため石垣にて砦を作り1592年に完成、その後の1606年に規模を拡大し8ft.も厚みがある石を22ft.まで達する高さで64ヘクタールを囲った。これがイントラムロス(Intramuros)である。

1896年に秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始した際、ミンダナオ島のダピタン(Dapitan、サンボアンガ デル ノルテ(Zamboanga del Norte)に追放されていたホセ・リサールがスペイン官憲に逮捕され、マニラに移送されて、この要塞の監獄に囚われの身になった。その後裁判にて銃殺刑を宣告されたが、ホセ・リサールの有能さを惜しんだスペイン官吏からの勧めを断り、1896年12月30日ホセ・リサールは自らの足でこの要塞からルネータ公園(Luneta Park、別名リサール公園)まで歩き、銃殺刑に処せられた。

1899年2月アメリカとフィリピンの戦争(米比戦争)が勃発し1913年まで続き、イントラムロス(サンチャゴ要塞)を戦後も利用したとされている。

1941年12月8日(日本時間)日本軍による真珠湾攻撃、そして翌9日中華民国が宣戦布告し太平洋戦争が勃発。
1941年12月23日本間雅晴中将率いる第14軍がルソン島リンガエン湾に上陸、1942年1月2日マニラを血を流すことなく占領した。その後日本軍はこの要塞を司令部として利用することになる。

第二次世界大戦末期の1945年2月3日から同年3月3日までマニラに残留していた日本軍とアメリカ軍(連合軍)との間で繰り広げられた市街戦で、サンチャゴ要塞を含むイントラムロスは瓦礫の山と化してしまう。
この戦いの最中600名もの捕虜がこの要塞のダンジョン(Dungeon)と呼ばれる地下牢で、パシッグ川(Pasig River)から水を引いて溺死させている。

1900年頃のサンチャゴ要塞(パシッグ川より臨む)
1920年頃のサンチャゴ要塞
上写真は強固な石を積み上げた城壁の下にはトンネルがあります。  右上写真はイントラムロスの数ある門の1つです。
イントラムロスの城壁の外側にはイントラムロス ゴルフ ゴルフコースがあり、18ホールありますがパー66 4326ヤードとショートホールが主のコースです。途中道越えに打つホールもありかなりトリッキーです。
城壁の上の通路(応戦中はここを兵士が行き来したんでしょう〜) 城壁には多くの砲台がありました。
第二次世界大戦で使用されていたと思われる弾薬 城壁は至る所で崩れていました。
要塞内は現在上写真のようにのどかな場所になっていますが、崩れて落ち屋根のない建物や無数の弾痕などが目につきました。
ホセ・リサールが囚われていた場所 ルネータ公園でホセ・リサールが処刑されたとされる場所※この写真のみルネータ公園のモノであり、サンチャゴ要塞・イントラムロスではありません。
ルネータ公園まで処刑される為に歩いた最後の散歩(Last Walk)として説明書き(左上写真)と、道のりを足跡で紹介されています。
要塞最北部のパシッグ側沿いにあるダンジョン(Dungeon)ここで600名もの惨殺があったそうです。
修復された現在の門と、第二次世界大戦末期の「マニラの戦い」の写真
左上画像は1898年のイントラムロスの計画図と、右上画像は1851年の計画図だそうです。
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