山下奉文大将と本間雅晴中将の墓碑(Los Banos

本間雅晴中将(ほんま まさはる)1887年11月27 - 1946年4月3日
1941年11月6日中将は第14軍司令官として指揮し、同年12月23日に台湾からルソン島リンガエン湾(Lingayen)に上陸し、順調に攻略しマニラ市の占領に成功、日本軍は1942年1月2日にマニラを無血占領に成功した。
その後ダグラス・マッカーサー司令官が率いるアメリカ極東陸軍はバターン半島に立てこもる作戦で強く抵抗し、45日間でフィリピン主要部を占領する日本軍の予定は大幅に狂わされたが、大部隊の増援により後、4月3日からの第二次バターン半島の戦いで4月上旬にはバターンを、そしてコレヒドール要塞を5月7日占領し、フィリピン全域を完全に制圧した。

この時マッカーサーは1942年3月12日マッカーサーの家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島へ脱出し、パナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアに飛び立った。これはマッカーサーの軍歴で大きな汚点となり、自尊心を傷つけられる結果となりミンダナオ島へ脱出する際に「I shall return(私は必ず戻ってくる)」と言わせたことでも有名である。

コレヒドール島を攻略する際に日本側の予想捕虜数2万5千名を大きく上回る7万5千人にも上る捕虜達や難民達を速やかに後方へ移送する必要があったが、マラリアや赤痢など、また栄養失調になっている捕虜を移送するには難しく、中将は「このまま捕虜達を放っておけば全滅する。後方まで移送できれば野戦病院もあるので、数q毎に救護所を設けて送り届けて欲しい。」「また出来る限りのトラックと汽車を集めてくれ。」と指示したが、当時の日本軍にはトラックも少なく、汽車も調達も難しかったことから、捕虜達はバターン州マリヴェレス(Maliveles)からパンパンガ州(Pampanga)サンフェルナンド(San Fernando)までの約60qという道のりを半数以上の捕虜が徒歩で行進することになった。収容所に辿り着いたのは約5万4千人だったそうだが、移動中の日本軍の監視も少なくかなりの捕虜が逃亡したとされている(アメリカ軍の死亡者は2300人と記録されている)
これが「バターン死の行進(The March of Death)」と呼ばれている。

死者が増えた理由の1つとして政治家であり陸軍中佐(後に大佐に昇格)辻政信が「この戦争は人種間戦争である」「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と部隊に扇動しており、独断で「大本営命令」と称して「アメリカ・フィリピン軍捕虜を射殺せよ」という命令が4月9日午前11時頃電話にて届き、今井武夫大佐は重大性から書面での命令を要求したが、この命令には文章もなく疑ったが、絶対命令だと信じ込んで実行するものもいた。中将はこれらの事情について全く知らなかったのである。

その後バターン攻略の不手際をとがめられ1942年8月31日予備役編入となり、終戦まで第一線には復帰することは無かった。

終戦を迎え1945年9月14日B級戦犯として巣鴨刑務所に収監、
1945年12月12日マニラ軍事裁判に出廷する為に、翌12月13日ロスバニョス刑務所へ移送、1946年2月11日バターン死の行進の責任者として有罪判決が下り、1946年4月3日ロスバニョスで銃殺刑に処せられる。
本間中将の名誉を重んじられて、略式軍服着用による銃殺刑であった。
この判決はマッカーサーの怨恨によるとも言われている。

因みに前述の辻政信大佐は終戦後、追放解放後の1952年に衆議院議員に初当選、1959年岸信介攻撃で自民党を除名され衆議院議員を辞職し、参議院議員に当選している。
山下奉文大将の墓碑から歩くこと10分くらいで本間雅晴中将の墓碑に辿り着きますが、途中は全くのジャングルでした。
上下左右の写真はバターン死の行進となった捕虜、そして行進中
現在 本間雅晴中将は、神奈川県 川崎市 多摩区 南生田8丁目にある「春秋苑墓地 第特別区7-12」にて永眠されています。

山下奉文大将へ

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